綿毛のように軽い小泉首相の言葉

歴史認識村山談話と同じ」…党首討論で首相
(http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20050420it11.htm)

小泉首相は20日の党首討論で、中国や韓国が批判している過去の歴史認識について、「村山談話と同じような認識を共有している」と述べ、アジア諸国に対する過去の植民地支配などへの反省とおわびを表明した1995年の村山談話を踏襲していると強調した。
 
首相は、中国の反日デモによる日本大使館などの被害について、「デモの暴徒化には、きちんと抗議しなければならない。日本は戦争の経験、反省を踏まえて戦後60年間一度も戦争をしたこともない。中国にも多額の支援・援助もしてきた」と語った

靖国参拝は不戦の誓いと戦没者への哀悼の念=小泉首相
(http://www.excite.co.jp/News/world/20050419145352/JAPAN-175040-1_story.html)

小泉首相は、中国の歴史教育について触れ、「友好は大事なので、どの国であれ、ある国に対して敵対感情をあおることは好ましくない」と述べた。
また、中国での反日デモに関連し、自らの靖国神社参拝が中国国民の感情を傷つけたとの見方に対し、「そうではないと思う。不戦の誓い、戦没者への哀悼の念で参拝している」と述べた。
さらに、靖国神社参拝が日本の外交的国益を損なうとは思わないかとの質問に、「思わない」と答えた。その理由として、「それぞれの国に歴史があり、伝統があり、考え方も違うからだ」と述べた。

いずれ小泉首相がこう言及する事は予想していた。
 
これに対して、保守派ブロガーのろぐ氏が

私は「村山談話」と所謂「従軍慰安婦の強制連行」を認め謝罪した「河野談話」、「歴史教科書に関する宮沢喜一内閣官房長官談話」、少なくともこの3つの売国的談話を乗り越えなければ正しい日本の外交も、教育も、そして愛国心も成り立たないと思っている。

と述べるように、小泉という政治家が、この前二つの談話を踏襲する政治思想の持ち主である事がようやく世間一般にもハッキリ知られるようになってきた。いや、政治思想だなんてそんな高尚なもん持ってそうにも無いけど。一部目を覚ましかけている人もいるようだが、相変わらず「これはあくまで党首討論(VS民主党岡田)などの国内向けのポーズであって、中国に対して約束したわけじゃない。首相の言動には見極めが必要だ!」「日本の戦前の行動を侵略だったと反省しつつ、靖国参拝に関しては決して譲らない姿勢だけは見せている。小泉はやっぱり策士だ!」とか抜かす信者は健在、その電波っぷりにはもう慣れちゃってもう苦笑いするだけなんだけどさ。
 
しかしこの小泉の言葉ほど空しいものはないね。「小泉 靖国 不戦の誓い」ググると、たいてい靖国参拝を非難するサヨク系サイトがヒットするわけだけど、勿論それとは異なる視点で言及したい。
 
極めて単純な話である。国家の指導者たる者が「不戦の誓い」などと口にして良いのか。国家の指導者とは、いざ国民の生命と安全が危機襲われた時に国を挙げて、それを守る為の存在ではないのか。警察が犯人との不戦の誓いを立てればどうなるか。治安は乱れに乱れ、警察の存在意義そのものが失われる。そんな馬鹿げた論理を国際政治に適用した結果が、日本人拉致事件ではないのか。そうした意味では平成十六年の日朝会談後、残りの拉致被害者の救出を放棄し、靖国神社に代わる国立慰霊施設の設立に腐心する小泉政権の行動は理に適っているものかもしれない。無論、これは皮肉だ。
 
本来、靖国参拝をする理由は単に慰霊の目的だけではなく、先人達が血を流してこの国の歴史を築き上げた功績を讃え、その継承を誇りを持って受け取り新たな未来を創造していく、壮大な“物語”の為なのだから。アメリカがアーリントン墓地を、台湾が忠烈祠を国家の根幹として大事にするように、靖国も他国の干渉を受けるような謂れは全く無い。
よって小泉が終戦記念日での参拝を前倒し、このような談話を発表した事は英霊への侮辱以外のなにものでも無い。

この大戦で、日本は、わが国民を含め世界の多くの人々に対して、大きな惨禍をもたらしました。とりわけ、アジア近隣諸国に対しては、過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計り知れぬ惨害と苦痛を強いたのです。それはいまだに、この地の多くの人々の間に、癒しがたい傷痕となって残っています。
 
私はここに、こうしたわが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。
 
私は、二度とわが国が戦争への道を歩むことがあってはならないと考えています。私は、あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊の前で、今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし、年ごとに平和への誓いを新たにしてまいりました。私は、このような私の信念を十分説明すれば、わが国民や近隣諸国の方々にも必ず理解を得られるものと考え、総理就任後も、八月十五日に靖国参拝を行いたい旨を表明してきました。

つまり、小泉は「戦前の兵士は国家指導者に騙されてアジアの人々を苦しめる事になった、一種の被害者なのである」と断言したに等しい。これほど人を馬鹿にした言辞もなかろう。戦前の日本の行動を=悪と決め付けロクな検証も無く裁き、戦勝国に押し付けられた価値観で断罪し、戦後に生きてきた我々へと繋がる歴史を断絶しておきながら「平和と繁栄」だけを誇る。そんな都合の良い歴史観があってたまるか。
 
困った事に、そんなご都合主義的な小泉史観を支持する“自称”保守が近頃湧き上がっている。学者や言論人で言うと半藤一利とか松本健一辺りなのだけど、“小泉の行動=絶対善”という盲目的賛美に浸る小泉信者の、ネット上における跳梁跋扈は目に余るものがある。以前から何度も言っている事だが、こういう輩はたとえ今年の終戦記念日に小泉が参拝を取り下げても「中国との軋轢を考えると、これ以上強硬にやると戦争になるかもしれない。苦渋の決断だったかもしれないが、バランスを考えた素晴らしい策士だ!」と褒め称えるのであろう。笑わせてくれる。そんな連中が「中韓の圧力を跳ね除けて、教科書を守れ!在日参政権反対!人権擁護法案反対!」と言っても、ただのお笑い種である。全ての発想が“小泉の行動=絶対善”から生まれ出ているのだから「何を守るべきか」という基本的な思想をいつまでも持つ事が出来無いのは当然だ。これまでもそうだったではないか。→「小泉とその信者の罪」
 
一体、何度同じ事を繰り返せば気が済むんだ?