SF講和条約11条の裁判or諸判決論争について

今日はちょっと短めで。その解釈について色々意見を貰っているので、それにレスをしたいのですが、ま、こちとらも別に法律の専門家でも何でもないシロートなんでどこまでやれるかなんですけど。ただ、その前提として次に引用する方の感覚が俺に近いのでまずは紹介。
 
◆松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG「サンフランシスコ平和条約11条「the judgments」の意味」
(http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/5218477.html)

サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」が「判決」か「裁判」かを巡っては、しかし、私には「それがそれほど重要なことかね」という思いもある。「judgments」を「裁判」と理解するとして、而して、「日本は東京裁判を受諾した」としてそれに何か重大な意味があるのだろうか、という感想を持っている。
 
確かに、「日本は東京裁判を受諾した」のだから、つまり、日本は東京裁判で示された歴史認識大東亜戦争前の政治体制への否定的評価を受け入れたのだから、同条約を(将来に向かって)破棄でもしない限りその歴史的と政治的な評価に日本の政治の営みは今後も拘束される;よって、所謂「A級戦犯」が合祀される靖国神社に時の首相が参拝するとか、日本の戦争責任を相対化するような歴史教科書が公教育の場で使用されるという事態は(単に道義的に問題があるだけでなく)サンフランシスコ平和条約に反することだと言うべきであるというような主張が、朝日新聞を始めとする戦後民主主義を信奉する勢力から(否、チャイナスクールの外交官や媚中派の政治家からも)繰り返されている。けれども、歴史認識や一国の政治体制の評価などはサンフランシスコ平和条約どころかどのような国際法も確立した国際慣行も(そして、国際法の慣習と現行憲法第98条2項を経由して現行憲法を含むあらゆる憲法も)要求できない<法規制不可能>な内容である。

この後に綿密な「the judgments」に関する解釈論が述べられてて、それはそれで勉強になるのだけれども、上記のこの反論で充分かと思われる。考えてみればごく当たり前の事で、たかが条約ごときに国家・民族の歴史観や教育が縛られてしまう、となる思考の方がどうかしている。それは非常に矮小な議論で、小林の今回のゴー宣・暫においてもそれが述べられているのも関わらず、裁判or諸判決で争っている。そもそも、“裁判”という言葉においても、主文にだけではない、判決理由をも含んだ「歴史観の押し付けを拒否する」意味合いで小林が使っているにも関わらず、SAPIOを読む事もなく、純粋な法律用語でツッコミを入れる人間がいるものだからますます混乱の元になってしまっているのだ。近年における政府見解・答弁そのものも批判しているのだけど、そこに触れて議論をする人も非常に少ない。とりえあずは嫁。話はそれからだ。
 
ただ、上記のようなブログへの反論(?)としてこのようなページもありますが。
サンフランシスコ条約11条の訳語
(http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/HEIWAJOUYAKU11.htm)
◆現在も解釈が分かれいるかつて日本が締結した条約、英文法上どちらの主張が正しいのでしょうか?
(http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1629629&ans_count_asc=1)
id:myhoney0079:20060911#p2 経由で。オチとしては引き分けのような・・・?
 
そもそもさ、日本語と英語で齟齬があるのは当然だしさ、実際のところGHQ筆頭のアメリカだってウォルト・ディズニープログラムだか何だか忘れたけどいやいやウォー・ギルトだけっか?それぐらいの事やってきたけど、まさかSF講和条約11条が日本人の思考を縛る道具になるだなんて思い付きもしなかったんじゃね?今日は、ま、こんなとこ。明日はまた解釈論に付き合って、ゴー宣・暫の話に戻ります。