「風の谷のナウシカ」感想

やっと全巻を読み終わった。
 
……う〜ん、これは正に「偉大な失敗作」だと思う。ああ、やっぱりやらかしちまったな、と。読後の感想としては、イデオンエヴァの最終回を観終わった時のそれに近いかな。
 
お世辞にもキレイに完結させたとは言えず、ナウシカというキャラクターの存在自体が元々孕んでいた矛盾、宮崎カントク自身の思想の迷走っぷり、それを覆い隠す為の後付けで、半分放り投げた形になった感がある。
 
以下、ネタバレ。
 
ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

先に述べた「偉大な失敗作」という呼び名は、この本で著者の佐藤健志が、フランスの名監督フランソワ・トリュフォーの造語として紹介している。 

監督が自己のテーマにこだわりすぎることが、しばしば「偉大な失敗作」を生む原因になっていると指摘し、そのような「過剰な誠実さ」(作品の完成度や整合性を損なう危険を冒しても自己のテーマに執着すること)のために、「偉大な失敗作」の方が傑作よりもむしろ監督のテーマをあからさまに伝えることが多いと論じている。

この本の内容としては、端的に言うと「この世代のアニメや漫画、特撮の監督には“戦後民主主義”を体現した様な『国家がなくとも社会の秩序は維持される』という甘えた思想が根底にあり、その矛盾が作品に反映されてしまっている」であり、保守派的なこの論調に反発する人は多いかもしれない。
 
実は、この本の中でもナウシカ批評がされているのだが、この時点では漫画版のナウシカは完結しておらず(1992年は5巻まで)、アニメ版を中心にしたものとなっている。ただ、そこでも「漫画版のナウシカの『人も蟲も愛する』といった台詞を吐かせて、環境保護ヒューマニズムと両立させようとしているが、そこにそもそもの矛盾がある」という指摘を既にしている。
 
……まあ、実際その通りになったなー、と。
 
このストーリーは色んなサイトやブログが詳細に語っているだろうから、あえて序盤や細かい点については省略する。
 
 
 
物語の途中で、人類に死の恐怖を与え続けてきた「腐海」の大地の毒を結晶化し、浄化する存在である事が判明する。また、腐海の中に生き、蟲使いの尊敬を受ける「森の人」なる人達が登場し、ナウシカに深く関わっていく事になっていく。
 
その内の一人、セルムという男は、ナウシカに清浄化された世界である“腐海の尽きる所”(あくまでナウシカの精神世界を介在させたものだけど)を共に旅して、「私と共に生きて下さい」とプロポーズ。しかしながら、ナウシカは人類の全てがこの場所で生きられるキャパが無い事、限られた地を巡って再び愚かな争いを繰り返す事を予想し「人間の汚したたそがれの世界で私は生きていきます」と宣言、申し出を断る。
 
えー。でも大海瀟の危険は去ったけど、腐海をどうにかしないと人類は滅びちゃう事は決まっているわけだよね? 腐海の毒が存在する限り、子供の数は年々減り、生きる為の作物は滅びてしまう事には変わりないわけで。この6巻部分が「ゴジラと〜」でも、“予想される矛盾”として批判されていた部分。
 
ただまあ、ヒューマニズムよりも環境保護を優先させて、物語の美しさのみを追求するってのはアリっちゃあ、アリ。いくらサヨク臭くても「愚かな人類よ!」ってのがなんだかんだで一番面白いワケで。それに徹するなら良いじゃないですか、思想を曲げないなら曲げないなりの筋を見せてくれるんなら。
 
でも、最終巻の7巻になると、これを更に引っ繰り返してしまうのだ。本当は、腐海も蟲も旧世界の技で作り上げたもので、現在の人類も汚れた世界で生きていける様に変えられたものだと。そして清浄化された地では、今の人類は生きられないという事を知らされる。
 
エエエエェェェェ(´Д`)ェェェェエエエエ  いや、それじゃ6巻のセルムのプロポーズってのは、結果的に大嘘って事かいな!ナウシカがあんだけの決断をしたのに。
 
結果的にナウシカは、その事態を招いた原因として、旧世界の技を伝える「シュワの墓所」を閉じに行く事になる。ここで本当の“悪”になるのは、愚かな戦争を続ける人類でも、清浄な世界を守る為に人類を見捨てようとしている(結果的に)ナウシカでも無い。世界を再建する為に、生物を作り替えた「シュワの墓所」こそが、本当の“悪”の根源だという論理になってしまうのだ。旧世界の技で、ナウシカ自身が清浄化された地でも肺から血潮を吹き出さない様に処理をしてもらっても、である。根拠をほとんど明らかにする事なく「汚染した大地と生物をすべてとりかえる計画」と決め付けて、墓所の破壊を始めてしまう。設定は「神」である宮崎カントクが決める事だから、旧世界の人々の意図というのはいくらでも後付け出来るんだけどさ。やっぱ唐突過ぎない?
 
そしてナウシカは、人類の体が人工的に作り替えられていたとしても自分達の運命は自分達で決める、たとえ滅びようとも!といった類の事を言い放つ。
 
その台詞はすごくカッコイイけれども、旧世界の技を拒否したら本当に人類が滅びちゃうんだから。もう無茶苦茶。ヒューマニズムはやはりどこかに消えちゃってる。その際の会話を引用。

墓主「娘よ、お前は再生への努力を放棄して人類を亡びるにまかせるというのか?」
ナウシカ「その問いはこっけいだ 私達は腐海と共に生きてきたのだ 亡びは 私達のくらしのすでに一部になっている」
墓主「主としての人類についていっているのだ 生まれる子はますます少なく 石化の業病からも逃れられぬ お前達に未来はない」
墓主「人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない」
ナウシカ「それはこの星が決めること……」
墓主「虚無だ!!それは虚無だ!!」
ナウシカ王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
墓主「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」
ナウシカ「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

出た、友愛出ました! ……全くもって、墓主の言う通り。ナウシカの論理は、王蟲という人類を滅ぼしかねない存在がいるからこそ、人類は命の貴重さに気付けるのよ!という事らしい。恐ろしい。いやー環境保護もここまでくると立派。まるでどこかの国の首相みたいだな。
 
しかしながら、これまでの描写を読んでみると、どうも宮崎カントク自身が自分で展開したその論理矛盾に気付いているのではないかと思う。
  
最終的にナウシカは巨人兵を使い、墓所の破壊を始める。墓主と、新しい人類の卵と共に。

トルメキア王「光が消えた 苦しんでおる」
ナウシカ「………泣いているのです 卵が死ぬと…」
トルメキア王「たまご……!? 清浄な世界に戻った時の人間の卵か?」
ナウシカ「自分の罪深さにおののきます 私達のように凶暴ではなくおだやかでかしこい人間となるはずの卵です」
トルメキア王「そんなものは人間とはいえん ………!?」

ちょっと待て。人間とは共存出来ないはずの蟲は守って、同じ“命”である新しい人類は平気で殺すのか? しかもこの卵について描かれたのはこの会話の2ページ前になってからだ。この事で、墓主の言葉が嘘でありナウシカの主張が正しかった事が判明するが、この設定もあまりに唐突過ぎる。卵を壊す事によって、今の人類が生きられるわけでもないからだ。そもそもナウシカ自身がその望みをバッサリ切り捨ててしまっているのだ。
 
ナウシカよりも、墓主の「虚無だ!!それは虚無だ!!」という台詞の方が余程論理として成り立っている事を自覚しながらも、ヒロインとしてのナウシカを否定する事が出来なかった葛藤がこの破綻したシーンを生み出したのだと思う。
 
 
宮崎にとって“悪”とは、トルメキアでも土鬼でも腐海や蟲でも無く「生命を操作した誰か」。人ながら、神を超越しようとした愚かな行為。
 
考えてみれば、いわゆる“リアルロボット系アニメ”には、操作された又は自然発生した、人類を超越した新人類の登場が定番になっている。そして単なるロボットのドンパチに留まらずに、常に「運命、そして神への挑戦」というテーマにまで昇華させようとした足掻きや苦しみを感じる。戦うべき神を持たぬ、今のクリエイターにこんな葛藤があるか。恐らく、無い。
 
だから宮崎からリアルロボットを作ってきた人達まで、今ではいい年になってきたアニメ監督達の作品には、その内容が破綻しまくっていても、その矛盾を越える魅力がある。だからこそ名監督と呼ばれるのだと思う。
 
さんざツッコミを入れつつも、それでもナウシカが「偉大な失敗作」である事は否定出来ない。紛れも無く大名作であり、大迷作です。なので皆さん、ナウシカは一般教養として読んでおくべきでしょう。
 <完>
 
 
……と、無理矢理まとめつつも、やはりこのナウシカのラストはどうかと思うのよ。

 語り残した事は多いがひとまずここで、物語を終わることにする。
 この後、ナウシカは土鬼の地にとどまり、土鬼の人々と共に生きた。彼女はチククの成人後、はじめて風の谷に帰ったとある年代記は記している。またはある伝承は、彼女がやがて森の人の元へ去ったとも伝えている。
 帰還したクシャナは、やがてトルメキア中興の祖として称えられるにいたるが、生涯代王にとどまり決して王位につかなかった。以来、トルメキアは王を持たぬ国になったという………。
 
おわり 1994.1.28

おわり、じゃねえよこのロリコン 
人類は滅びるんじゃなかったのかよ! 土鬼の国は崩壊したんじゃないのかよ! 森の人の元へ、ってアスベルとはどうなったんだよ! 投げっぱなしにも程があるわボケ!!