馬鹿げた「公共の福祉=調整の原理」理論に隠された目的

「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ
 
これ(id:kikori2660:20120604#p1)がまだ続いてた。自民党改正案に反対する側の“表現規制反対派”の一人が論戦を吹っ掛けてきたので相手をしていたら、まとめ主(論戦の相手と同類)がコメント欄をロックアウト。続きは自分達のブログでやれとさ。“表現規制反対派”を名乗る割には表現の規制に躊躇無いな!
 
なので、まとめ主に消されてしまった反論を以下に転載。

「公共の福祉=調整の原理」という定義そのものがあった事は事実なんだろう。だが、それについて書いた本が存在した事と、似た考えを内閣法制局長官が示した事は、その概念が定着していた事の証明にならない。実態は君が意図的に省略した国会答弁、吉國長官の『一般的に基本的人権について公共の福祉というのがどういうものであるかと言えば、日本国民の総体の利益というようなものを勘案して抽象的に申すよりほかございませんで、〜』に表れている。

この国会答弁の中で吉國長官や三木総理を責め立てている横山議員も、別に公共の福祉という言葉を守れ、と言っているのではなく、「自民党政権は公共の福祉という言葉を濫用し、勝手な解釈を加えて憲法九条を破るな! 国民の基本的人権を侵害するな!」と主張しているだけであって、憲法から公共の福祉という言葉が無くなってしまったら、国家は北朝鮮並みの国民抑圧国家になってしまう!という論理は、目的をはき違えた倒錯的思考であると言わざるを得ません。

で、もう何度も言ってる気がするんだけど、偉い憲法学者の先生が唱える定説とやらも、その人が書いた本の断片を持ち出して、ほら見ろ、ここに俺が正しいって書いてあるぞぉぉぉという行為も情けなくて滑稽なわけだよ。お前の事な。→ @tk_takamura 憲法の定義や解釈とかフツーの職業の人間が語るわけもないんだから、そいつらの中の声の大きい人間が定説だ定説だ、と喚けばそりゃ定説って事になっても不思議ではないわな。でもそれが定着するかはまた別の話。歴史問題の南京とか従軍慰安婦とかが良い例だよね。

有事が起こった際、国家が自国を守る為に国民の権利を奪う事もある。道路を閉鎖したり戦車を走らせたり、一時的に土地や財産を徴用したり。でも戦前の日本は悪であった、という風潮が今とは問題にならないほど強かったこの時代、内閣法制局長官の言う調整の論理なんて「今は昔みたいにお国に命を差し出せ!なんて時代じゃないですよ、その辺は話し合いで決めようよ、ってのが公共の福祉ですから(汗」と言い繕っているのが、この一連の国会答弁の内容だ。

でも、この論争相手が「昭和50年05月14日 - 衆 - 法務委員会 - 19号」*1を持ち出して、内閣法制局長官の発言を紹介しなかったら、どうして連中が「公共の福祉は調整の原理であり、その文言を削れば戦前の日本の様な国民を弾圧する国家に逆戻りしてしまう!」という頭の悪い理論に拘っているのかが理解出来なかっただろう。そこだけは感謝だ。
 
彼らが公共の福祉に執着するのも、自民党議員がその言葉を削って「公益及び公の秩序」という言葉に差し替えようとするのも、要は全ては憲法九条についての攻防であった。
 

*1:国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/ でこの国会答弁を見る事が出来るので、当時の空気を知りたい人はこの日付と委員会の名前や、公共の福祉というキーワードで検索して下さい