「風立ちぬ」論評の数々

ジブリの「かぐや姫の物語」が公開されたタイミングで、上映が縮小され始めた「風立ちぬ」を観に行った。まあ、ホント今更だけども。
 
以下は、ネットでよく散見された「風立ちぬ」評。え〜っそりゃネーヨってのから、俺の言いたい事ほとんど言われちゃってるわ〜ってのまで色々アリ。
 
 
【レポート】『風立ちぬ』は宮崎駿の作家性が強い「残酷で恐ろしくて美しい映画」

風立ちぬ』を見た僕らの感動は何かというと罪悪感。自分の中にも同じような自分勝手な二郎がいるから。だから感動するんです。自分勝手な奈緒子もいるんです。

 
【レポート】宮崎駿の最高傑作『風立ちぬ』は「ひとでなしの恋」

これはどういう意味かというと、その瞬間に菜穂子は死んでる訳ですね。本当にギリギリまで二郎に綺麗な姿を見せたから、その分菜穂子は寿命が縮んじゃって、多分一人ぼっちで山の中で死んだんだと思います。自分の命を与えたっていうメタファーですね。

 
町山智浩さんの『風立ちぬ』の解説が深かったので書き起こしました。

で、この人はまさに戦争の道具である戦闘機を作るんだけども、戦争そのものに対して責任はどうなのかっていう事を問うているわけですね、この作品の中で。で、宮崎駿さん自身がそういう人で、とにかく戦闘機とか戦車が大大大好きな人なんですよ。でも、反戦映画を撮っているでしょ。戦争はいけないんだっていうことを映画の中で言うじゃないですか。でもその割には戦闘シーンをめちゃくちゃ快感で撮ってるじゃないと。あんた戦争の道具大好きでしょうと。大好きですよ、でも戦争は絶対いけないと思うと。そうした矛盾した気持ちっていうのを持ってるのが、こういった物をつくってる人たちなんですね。

 
『風立ちぬ』を見て驚いたこと

妹の訴えに対して、二郎は「僕達には時間がないから、一日一日を大事に過ごしているのだ」と答えるわけですが、これは全く頓珍漢な答えです。だって、二郎は朝から夜遅くまで仕事をしているだけで、特に菜穂子と多くの時間を過ごすわけではないからです。もしも、本当に大事にしているのであれば、菜穂子は療養所に返して、二郎が週末にでも訪ねるというスタイルにすればいいはずですが、二郎はそんなつもり毛頭ありません。病身で命を削ってだろうがなんだろうが、朝「いってらっしゃい」と美しい菜穂子に言ってもらって、一日美しい飛行機の設計をして、夜遅く帰ったらまた美しい菜穂子に「おかえり」と言ってもらう。それが彼にとっての「大事にすごす」です。菜穂子の健康も、二人の未来も、菜穂子の望みも、そんなもの知ったことではありません。

 
◆第十三回 「飛ばす人」への焦点化が国民映画作家の遠近法を狂わせる 『風立ちぬ

だが、二郎が特高の目から隠れて進める航空機開発という設定は、まるで彼のつくる飛行機が国策とは無縁の、それどころか国家権力の意向に反した、ひたすら美と自由を希求する純粋に個人的な営為であるかのように見せることになる。

不意に夫のもとから姿を消した菜穂子の真意も、ただ黒川夫人の口から代弁されるばかりであり、菜穂子には自分の声というものがまったくあたえられていないのである。

 
宮崎ヒロインは背負い、受け入れるーー宮崎駿『風立ちぬ』

「超可愛い女の子と恋愛したいなあ」「その女の子が苛烈な運命を背負ってると萌えるなあ」「んで、その女の子が、お母さんみたいにボクを受け入れてくれたらなあ」というアンビバレントで手前勝手な、最低であり最高な欲望。ロリコンでありマザコンである俺宮崎に答えてくれる美少女がいないかなあという、醜悪で高貴な渇望、今までは作品のエッセンスとして匂わされていたこの要素が、いよいよむき出しに、赤裸々に描かれている作品、それが『風立ちぬ』なのだ。なにせ本作には「生涯でボクだけを愛して死んでってくれたらなあ」という願望まで上乗せされているのだ。もう最低です。最高です。かような理由により、この映画は最低であり最高、醜悪であり美しいのだと思いました。もうほんとに素晴らしい芸術であります。

 
軍事思想史から観た「風立ちぬ」(宮崎駿監督)の近代 (雑談ありバージョン)

宮崎さんは戦前を知ってるわけでも、ないですけれども、今の我々よりは日本が貧乏だった時代、世界の弱小国だった時代というのを知っています。で、戦前は懸命に軍事大国化しましたけれども、それでも欧米から見るとはるかに遅れていた。遅れていたからこそ、軍事強国化ということで、頑張らざるを得なかったということがありますね。これは日本という国が、世界文明の中で置かれた位置の憐れです。そこで泣いたらしいんですよね。

この本庄季郎はですね、これも実在の人物です。やっぱり、三菱重工で、飛行機を作っている設計者で、この人もまた、非常に優秀な設計者だっとことも史実です。この人が、作ってたのですが、爆撃機なんですよ。一式陸攻とか九六陸攻とか、いくつかあるんですけど、主に爆撃機の傑作を作って、それで、陸軍のほうに貢献したという人なんです。それに対して、堀越二郎零戦ですね。零戦は、零式戦闘機を略して零戦ですから、戦闘機の人なんです。だから、この二人は戦闘機の名設計者と、爆撃機の名設計者ということで、くっきり別れるわけです。

その戦闘機乗りのトップであった、成層圏気流の主人公が、そのようやくわずかに残ってる騎士道の時代が、核兵器の時代になったら、なくなってします。つまり、ドゥーエのいう戦略爆撃で、戦争がすぐ終わる、あるいは、抑止されるんであって、戦争の中で磨かれて輝く騎士道精神とか、日本でいったら侍の精神ってものは、もう微塵もなくなってしまう。そんな時代を来させたくはない。無理と思っても、燈籠の斧でも少なくとも俺は、そっちに加担したくないと言って、見殺しにしていくと。そういうお話なんです。だから、戦争がより好きな人が、ナチスを、日本を、さらにその後のアメリカも…、核の軍事力というものを批判する。そういう非常に奇妙なお話になってるわけですね。これは非常に新鮮でした。それ以降もあんまりないんじゃないですか、こういうのは。このコックピットシリーズを見ますと、似たようなこの構図の話っていうのが、いっぱい出てきます。だから、今でも、このコックピットシリーズってのは、松本零士の代表作だと思うし、思想的にも貴重だと思っています。

そう考えると、この戦闘機の思想、それと松本零士がフィクションとして描いた戦闘機の思想っていうのは、そういうふうな戦争が、文化的だった、儀礼的だった、そういうふうな歴史っていうのも、20世紀に蘇えらせるわずかな部分なわけです。それすらもなくなってしまうのは許せない。それが松本零士の主人公たちの叫びなんです。この漫画ではね。それ考えると宮崎駿って人も非常に面白く思えてきます。宮崎駿について、今回、改めてよく言われていることですが、兵器、飛行機そういうもの大好きなんだあの人は。そういうふうな絵っていうのは、本当にうまいし、嫌いじゃかけないし、本当に好きで書いてる。自分でもそう言ってる。さっきの対談でも戦闘機は大好きなんですよ、っていうふうに言ってます。兵器工場の息子さんってこともありますからね。
そういう人なのにメッセージとしては、インタビューとかそういうところでは、反戦憲法九条護持、そういうことをまじめに力説している。それもまた本気でしょう。この二つっていうのは、どういうふうに繋がるのか。矛盾しないのか。矛盾でもいいです別に。

岡田斗司夫はですね、宮崎駿って人は、別に、そんなロマンチックな恋愛をして、彼女とか新妻を結核で死なせてるような人ではない。まあ、わかんないですけどね、若いときどんな恋愛したかは。全然わかんないですけど、少なくとも奥さんは、当時東映動画の、60年代日本の最大のアニメを作ってた製作所の同僚のアニメーターです。で、今でもジブリ以外は全てそうですけど、アニメーターっていうのは、全部ブラック企業です。で、東映動画は大きい会社だったけど、相当過酷なブラック企業でした。で、その中で相当大規模な労働争議がおきます。で、その労働争議の中で、宮崎駿マルクス主義、その他を叩きこんだのが、今のジブリのコンビの高畑勲さん。そっちは東大出てますけどね。すごい労働争議がおこって、その労働組合がいわば会社と対抗するなかで、アニメを一つ作ってしまった。「太陽の王子 ホルスの大冒険」ですね。そういうふうな中で、一緒にいた人と結婚してます。まあ、職場結婚ですね。で、岡田斗司夫はですね、宮崎さんの結婚というのは、いわばお絹との結婚なんだ。そんな、超セレブのお嬢様を捕まえたとかではない。超セレブのお嬢様こそが似合う、ロマンチックな情熱恋愛とかではなく、一緒に生活をともにしてやっていけそうな人と、結婚したんだ。で、普通の夫婦としての幸せを掴んだんだ。それの相手ってのは、これは、奈穂子さんじゃなくて、お絹だろうといってます。

 
映画:風立ちぬ 感想島国大和のド畜生)

これ、そんな解り難い映画か?ベタで解りやすいし、普通に映画館に来るような客なら、当たり前に理解しているだろう。正直、ベタ過ぎるのではないかと思わせる演出も多い。

ヒロインは結核持ちで、結核は人に移る病だが主人公と関わる。2人は緩やかに破滅していくわけで、それは国の有り様とも重なる。そもそも上司の奥さんは、一歩引いた日本女性的だが、完全に旦那をコントロールしている。ヒロインも状況をコントロールしている。主人公の妹は、一般的な視点で主人公を薄情だと非難する。事実薄情である。だが、主人公とヒロインの間ではそれは最初から同意された行動であるし、ヒロインもたいがいなもんだ。