尖閣ビデオ流出問題に対する私見 その3

●海保職員の行動を何に喩うべきか

左系ならともかく、自称保守までもが、馬鹿の一つ覚えの様に五・一五事件に喩えるのにウンザリしている。
 
自分がこの流出事件を受け、一番最初に思い出したのは、西村眞悟の以下の日記だ。
 
眞悟の時事通信バックナンバー/国家における情と理

国家における情と理 
 
 
    情のない理は有害であり、
    理のない情は無力である
 
 
 
この度の北朝鮮との交渉再開合意に関して、理と情を分別して、「情においては許し難く、理においては歓迎する」との論評がある。
 
しかし、私は言う。
「真実、情において許し難ければ、理においても受け入れ難いのである」
 
情を無視して構築された理は、いずれ破綻するのだ。

以上の話は、拉致事件が問題になっていた頃に、当時の小泉首相北朝鮮に訪朝して日朝平壌宣言を交わし、国交“正常化”交渉を進めようとしていた時の事である。
 
これには、政治番組「朝まで生テレビ」では、北朝鮮への経済制裁や国交再開がテーマとなっており、小林よしのりと媚北派の姜尚中の討論が念頭にあったものと思われる。

小林「そこらへんは、要するに北朝鮮が怖いんだよ。理の根底の情として国交正常化があるわけ。理が無いんだよ*1
 
姜「情を貫くためにこそ理が必要なんだろ!情だけで無責任なことを言うのは誰でもできるんだ。」

via うたたねの記
 
更に西村は、ハリウッド映画「プライベート・ライアン」のストーリーを例に取り、国家と一兵士(とその母)の信頼関係について語り、こう述べる。

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国家における情と理を考える場合には、その時の、一時の損益計算書ではなく、「民族の品格」、「民族の価値観」が歴史に如何に現れゆくかという観点から総合的に決断すべきである。そうすれば、国家における情と理は、分離して論じられるものではなく、総合的・全一的に把握されるべきものである。

「犯罪を起こした中国人船長を処分保留で釈放した事と、政府に公開を禁じられた動画を公開した事の罪は別だ」「公務員として、服務違反をした海保職員など英雄視するな」という意見は飽きる程聞かされた。
 
“理”ではきっとそういう事なのだろう。
 
しかし、そこには一欠片の“情”も無い。左系ならいざ知らず、自称保守までもが「海保職員を賞賛する者は、戦前の軍部の暴走を許した事への反省が無く、ただの民族主義者である」とこき下ろす有様だ。何と言うべきか、情けない。
 
政府は、国益からは程遠い、一時しのぎの判断で中国人船長を自由にしたが、命懸けで働いている海保職員や自衛隊員を犯罪者扱い、またはクーデターいやテロリスト予備軍扱いをする。
 
この二つの事(船長釈放と服務違反)が関係無いわけないだろうが! 都合の良いところだけ国家への忠誠を強要するなよ。そりゃ民間人の航友会会長だって「菅政権つぶして自民党政権に」と言いたくなるだろうさ。
 
明かな左翼政権である現政府だけでなく、国民全体の国防に携わる人々に対する疑いの目、軽視が彼らを傷付けている様に思える。

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そう、正にこのベトナム帰還兵に対する視線、差別行為に怒りを爆発させたランボーに喩えるべきではないだろうか。たかがあの程度の動画流出を五・一五に喩えるぐらいだ、特に問題は無いよね。
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そして、この第二作目のラストシーンでは、ランボーは上官に向かい、兵士を見捨て様とした軍及びアメリカ国家に対し、次の有名な台詞を言う。

 
 
    「彼らが国を愛したように、国も彼らを愛して欲しい」
 
 

*1:文脈からすると、ここは“情”が無いんだよ、が正解な気がする