言い訳になってねぇ

加藤紘一オフィシャルサイト
「7月7日、BS11で放送された「西川のりおの言語道断」での発言について」(WEB魚拓

7月7日、BS11で放送された「西川のりおの言語道断」の中での私の発言の一部分だけが、時事通信の記事として配信され、多くの皆さんが違和感を抱いたり、怒りを感じたり、悲しんだりしておられるようです。
 記事だけを見ると、唐突に「拉致被害者北朝鮮に戻すべきだった」と述べたように受取られますが、是非、前後の文脈を知っていただいた上で、趣旨をご判断いただければと思います。

発言の前後の文脈を読んでも、何一つ言い訳になっていないという。これが通用すると思う、この男の感覚こそがスゲェ。
 
はてサ界隈でも、明確な支持はしないものの、このテの発言に同調するエントリーが目立ってきた。「拉致被害者の生活基盤は既に北朝鮮にあるのだから、日本が彼らを帰国させないのは“再拉致”だ」といった類の、一昔前なら「阿呆か」と一蹴された発言もこれからエントリーとして復活させてくるだろう。まあ、2chで叩かれて逃げ出し流れ着いた先こそが、このはてなダイアリーだったりするわけだが。
 
まあ下らない記事を互いにブクマし合って、閲覧数を稼ごうとする程度の事しか出来ないはてサの主張に耳を傾ける向きは少なかろうが、カウンターとしてとりあえずこの人物を紹介しておこうと思う。
 
寺越武志 さん

1963年5月11日、13歳の中学生であった寺越武志は、叔父の寺越昭二(当時36歳)、寺越外雄(当時24歳)と能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になる。翌日に沖合い7kmを漁船だけが漂流しているのを発見された。漁船には他の船に衝突されてできたような損傷があり、塗料も付着していた。海上保安庁や地元漁協の捜索にもかかわらず、その後の消息がつかめず戸籍上「死亡」扱いにされたが、1987年1月22日に寺越外雄からの手紙によって北朝鮮での生存が判明した。その後武志の父で昭二・外雄の兄の寺越太左エ門(1921年生まれ)と武志の母寺越友枝(1931年生まれ)は北朝鮮に渡り外雄・武志と再会。1997年7月1日、武志は金沢市を本籍として戸籍を回復した。以後友枝は彼に会うために数ヶ月に1度の割合で頻繁に訪朝するようになる。一方太左エ門は2001年7月に訪朝した際そのまま北朝鮮に留まり、武志一家と平壌市内で生活した。
 
寺越武志はこの行方不明について、「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と話し、拉致疑惑を否定している。そのため、日本政府が認定する「拉致被害者」には含まれない。
 
現在は朝鮮労働党員で平壌市職業総同盟副委員長。
 
2002年10月3日に、労働団体の代表団の副団長として来日し、石川県の生家にも宿泊した。この来日は拉致被害者5人が帰国する12日前であったが、日本政府と与党(自民党公明党)関係者の出迎えがなかったため、友枝は「武志を日本人として扱ってほしかった。武志は完全に北朝鮮人になってしまった」と思ったそうである。帰国が近づいた頃、寺越友枝が「お前は日本人なんだから日本のパスポートを持つべき」と問いかけたところ、「私は(朝鮮民主主義人民)共和国の人間です。金正日将軍様の配慮で何不自由なく暮らしています。」と話し、日本のパスポート所持を拒否した。

まさに、これこそが北朝鮮に返された拉致被害者の未来図だ。寺越さんについての記事や資料を見て、何も不自然に感じない人間がいたとしたら、相当歪な思考の持ち主だろう。右も左も無いんだよ。まず、人としてまともな思考を持てってんだ。