韓国、対日断行も視野 74年の朴大統領暗殺未遂「文世光事件」

(http://www.sankei.co.jp/news/evening/21int001.htm)
今でこそ政権そのものが北朝鮮シンパ化してしまっている韓国だが、この時代は弛みきった日本よりよほど国防意識が高く、目の前の脅威から目を逸らす事は無かった。その最中、国家元首を銃撃しようしたテロリスト(もちろん北朝鮮の肝煎)である在日朝鮮人に対する捜査に、日本政府はろくに協力しようとしなかった。これはいかにも、ひどい。国内の摩擦を恐れ、共産主義と戦う同じ陣営の韓国を大いに揺るがすこの暗殺未遂事件を無視しようとしたのである。朴政権が対日断交を考慮したのも当然だろう。“文世光事件”でググってみれば、その時代の韓国がどれだけ北朝鮮に対して警戒を怠らなかったか、そして無警戒な日本がその割を食い、国民の拉致被害を招くようになったかがよく分かる。拉致事件とは紛れも無く、国家の怠惰と怯懦が招いた日本自身の不作為の犯罪でもある、という事だ。その中で見つけた「拉致事件は何故防げなかったのか 持田直武 国際ニュース分析」というサイトを紹介。

朝鮮半島情勢に現れていた拉致の前兆
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これと並行して、国民の生活も戦時態勢になった。夜は外出禁止、自宅は外部に光がもれないように灯火管制、国民ひとり一人が写真と指紋入りの身分証明書を携帯、買い物や映画館の入場にも提示を義務づけた。そして、週1回敵の攻撃を想定した避難訓練を実施し、国民全員の参加を義務付けた。こうして、ゲリラや工作員が潜入しても活動できないようにすることを狙ったのだ。
 
日本ではこのきびしい警戒態勢を朴正熙政権の強権政策と批判的にみた。だが、70年代になると、北朝鮮工作員が38度線や海岸から侵入する例は次第に少なくなり、代わって日本経由で、日本人になりすまして入国する例が増える。韓国の警戒態勢が効果をあげる一方で、無防備な日本が狙われたのだ。それを示すのが、1974年8月15日に起きた朴大統領狙撃事件である。その後の拉致事件につながる数々の動きがこの事件の背後ですでに起きていた。
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韓国警察の発表によれば、文世光は大阪で北朝鮮工作員に誘われ、反韓国活動のグループに入った。そして、大阪府警高津派出所でピストルを盗み、複数の工作員の指導で射撃やゲリラ訓練をし、日本人のパスポートを使ってソウルに来た。この彼の自供に基づいて、韓国警察は日本が北朝鮮の対南工作の拠点になり、それに朝鮮総連が関係しているとの調査結果をまとめる。
 
そして、韓国政府は日本政府に対して、朝鮮総連の活動規制、工作員出入国監視の徹底などを要求した。しかし、当時の田中内閣は狙撃事件に日本警察のピストルが使われたことを謝罪したものの、朝鮮総連工作員の規制は日本の国内法に基づいて処置すると回答、明確な姿勢を示さなかった。国内では、北朝鮮と友好関係にある革新陣営が規制に反対。田中首相も、自民党実力者の福田、三木両首相候補が政権から離脱して指導力を失い、反対を押し切って朝鮮総連を規制する政治力はなかった。
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『植民地支配の個人補償「韓国政府が義務負う」日韓条約の文書公開』という韓国にとっては不利な条約の中身をあえて明らかにしたり、と盧武鉉政権の考えている事はいまいちよく分からないが(野党叩きのネタ?)、日本政府の臆病ぶりは当時とさほど変わっていないのだけは分かる。日朝平嬢宣言では、北朝鮮の国交正常化交渉に総連が参加させ“在日への差別を止める”という名目で不法送金を認める約束をし、拉致議連が苦労して拵えた“外為法”“特定船舶入港禁止法案”を発動させる勇気を持たぬ小泉政権。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」という日本国憲法前文のフィクションを信じ、拉致被害者家族の訴えと北朝鮮の脅威を無視し続けてきた歴代政権とほとんど変わるところが無い。過去の教訓に学ぶのなら、改革モドキや保守モドキの小泉の本質を見抜き、速やかな退陣を求める国民運動を起こすべきではなかろうか。
 
例の女性戦犯法廷に絡む「安倍・中川のNHKへ圧力事件」疑惑は、朝日新聞内部の北朝鮮シンパ記者の壮大な自滅劇に終わりそうだ。が、以前の日記でも述べた様に、韓国がしつこく所謂“従軍慰安婦”問題を持ち出すのも、首相が謝罪文を公式に発表し官房長官までが詫びを入れる低姿勢も原因の一つだ。まずはこの卑屈な戦後民主主義からの脱却こそが今の日本には必要だ。