OTAKING SPACE PORT◆近況 2004.07.31

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マイケル・ムーアを唐沢さんと対談したときに批判したので、「正義派」の人たちに怒られてます。どうも、世の中には「正義のためならルールは無視していい」と考える人のほうが多いみたいです。私自身は「ワイルド7」とか好きだから、そういう気持ちもわからないではありません。でも、あれはフィクションです。で、我々が住んでる世界は民主主義で、この政治システムの本質は「愚直なまでにルールに忠実であること」だと私は理解しています。正義の味方かもしれないけど、ドキュメンタリーのルールを無視して事実の歪曲に無頓着な「ボウリング・フォー・コロンバイン」を私はドキュメンタリーとして認めることはできません。そして、そういう作品を「真実だ」と判断させて選挙に行かせるのは、とても危険なことに思えます。政治的に使うことを前提とするなら、それは「作品」ではなく、「実用品」でしょう。ムーアの「後撮りのカット割り込み」の倫理違反に関しては、私は映画「ブロードキャスト・ニュース」を前提に話していますが、はたして何人がちゃんとあの映画を見て反論してるやら。でも、「ドキュメンタリーだろうが何だろうが、ムーアは正しい!」と叫ぶ人たちの気持ちもわかるつもりです。なので、これからはムーアのことを「正義のゲッペルス」と呼ぶことにしました。やってることはゲッペルスだけど、目的や動機が正義だったらかまわない、というわけですね。私個人としては正義だろうと悪だろうと、ゲッペルスはお断りですけど。

あのFlashネタじゃないけど、ゲッペルスじゃなくてゲッベルスだよね。どーでもいいけどさ。ネットを巡回してみるとこの岡田斗司夫氏の発言に噛み付いている奴ってどうにも単純な思考のサヨクっつーか、無批判のムーア・マンセー厨ばっかり。別に難しい屁理屈を捏ねて言葉遊びをしているわけでも無く、ブッシュ批判派を攻撃しているわけでもない。ぶっちゃけて言えば、「そういう荒っぽいムーアの映像手法のやり口に乗せられて熱狂し、ある政治的目的を達成しようとしてる奴って、結局ナチに踊らされたドイツ国民とあんま変わんないじゃねーの?」って事でしょ。いくらムーアの映画への圧力があると言っても、中共北朝鮮が国家批判を絶対に許容しないのとではワケが違う。むしろ岡田氏はこういった手法が結果的に招くヒステリックなもしくは全体主義的な硬直した言論状況を恐れているタイプの人間で、むしろ自分のような西村眞悟好きな保守人間より、いわゆる左翼系の人にシンパシーを抱いているんじゃないの(別に自分が全体主義的な硬直した思想の持主だと認める、という意味ではもちろん無い)。そういやイラク人質事件が起きた時に、あの三馬鹿やその取り巻きを批判した唐沢俊一氏を攻撃してる奴もいたけど「ホントこいつら敵と味方の見極めが出来ない阿呆だわ〜」なんて思ったもんだ。結局の所、そういう「何でも有り」の状況で誰が一番有利で、誰が一番得をするのかと言えばそりゃ国家だろう、という不信感を根本に持っているワケでしょ>岡田・唐沢コンビ。もし全体主義者という人間がいると仮定して、どういう国民が一番嫌な存在かと言えばこういう冷静な二人こそ厄介であって*1。あの町山氏に、岡田氏の発言を御注進して二人の間の論争を盛り上げようと画策しているのがいるけど、何だかイヤらしく感じるんだよな。サヨクのムーアに対するこうした入れ込みぶりは、言論能力を失った最期の足掻きの様に思えて涙を誘う。唐沢氏のイラク三馬鹿批判にもそうした「ズレちゃった地球市民」に対する憐憫の情が有ったんじゃないの。
 
ただ岡田氏は一方で「信じる正義の為には何でもあり」という考え方を全否定してるわけでもなくて、革命の為には熱狂が、現状のルールの打破が必要である事は認めているんじゃないのかな。明治維新なんてもんは江戸幕藩体制やその体制下にいた民衆にしてみりゃ、当初はただの反乱だったろうし、自分達の生活が変わって欲しいなどと考えてもいなかっただろう。維新が成功したからこそ、坂本竜馬は維新の志士となったわけで、失敗だったらただのテロリストだった。ま、後世にならないと真の評価は出来ないんだろうけどね。いや後世になるほど歪んでくるものも存在するが。ムーアの言う事が正しいのか、それとも希代のペテン師なのかは分からない。ただ、日本国民である俺にとっては、まずそれが日本人にとって有益なのか?という視点からスタートさせねばならないと思っている。
 

*1:ちなみに新しい歴史教科書に批判的なこの二人を自分は好きになれない